荒川家の出生の地は大阪といわれている。大阪において享保年間より繁栄した旧家であった。
10代目の荒川益次郎(店祖)は、京都東洞院六角下ルの木綿問屋、近忠商店(当時、店主藤井治郎兵衛氏)に修行のため奉公し、明治18年に別家を許可された。翌明治19年2月に独立するあたり、当時生家の得意先であった、北海道札幌丸井今井呉服店(現在の丸井今井百貨店)の店祖今井藤七氏に相談申し上げたところ、 木綿商は主家と競合するので半衿小物卸商を薦められた。

商標は、主家の
(カネイチ)の
(カネ)と自分の名前の益次郎の
(マス)を取って
(カネマス)と名付けていただいたのである。それ以来、呼称を「金益」(または金満寿)といわれた。
※(カネ)とは、大工道具の(曲尺)のこと、「間違いのない仕事をする」という意味。
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明治19年2月8日、現社長の曽曽祖父 荒川益次郎が半衿服飾並びに染呉服の製造卸売業を創業した。当時は京都錦小路東洞院路地内のささやかな店舗であり、店員を採用したのは数年後である。
創業以来、献身的な奮闘努力を続け、大正初め頃にはすでに京都屈指の大商店として、 綾小路といえば業者間の通用語として荒川商店を指すほどにいたった。
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さらに、京都問屋街の中心、室町綾小路に進出した時は、その発展はまさに驚異的なものと称賛を受けた。大正11年10月、10代目荒川益次郎は和元と改名し、11代目が益次郎を襲名し、業績はいよいよ発展の一途をたどり、世界大戦や関東大震災以来の数度のパニックにも微動だにもせず、 営業網は内地全域はもとより、台湾、朝鮮、満州、中国大陸に及び絶対なる信頼を博し、業界のリーダーと評されるにいたった。

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昭和6年12月27日に株式会社荒川益次郎商店に改組し、企業の基礎を確立した。昭和17年企業整備により和装製品及び絹人絹織物の卸売登録店となり、昭和19年には社名を荒川株式会社と改めた。
終戦後の昭和22年に和装製品生産卸売及び絹人絹織物卸売の登録店となり、昭和24年絹人絹織物の統制が解除されるとともに、和装製品の製造卸売業に復帰した。この間、戦前戦後の統制時代、混乱期には幾多の困難山積みの中を全員の努力により、無事経過し、大切な信用と伝統ののれんを守ることができたのである。
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昭和29年東レ株式会社との提携により、合織和装製品を開発し、製造卸業をはじめた。
昭和32年には洋品部門を開設し、アムールの商標で、ネグリジェ、パジャマ、ローブなどのナイトウェアの製造卸売をはじめ、全国に販売している。また、資本金も戦後毎年の増資により、現在9,900万円となり、支店も昭和21年に札幌、同24年に東京、福岡、同30年に名古屋、同32年大阪と順次開設して、北は北海道から南は九州沖縄にいたるまで全国的に販売網をもち、有名百貨店や小売専門店とたえず密着した連絡をとりながら商品の開発とサービスの充実には特に力を入れ、取引を続けている。
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